アルメニア共和国の産業

ソ連邦崩壊から独立国への大きな変化

 アルメニア共和国は、1980年代後半から1990年代にかけて大きな変化があった。1988年には、アルメニア北部は大地震に襲われ、1991年にはソ連邦の崩壊という大地震以上の激震が襲った。
 独立国になり、日本の四国より少し大きない度の面積の周辺に国境ができてしまい、自由に往来できなくなった。それまでモスクワと言う上部からの指示で運営してきた企業経営者は、「自主的な経営」と言う突然大きな意識改革を迫られることになった」


社会主義経済体制下における企業経営
主な実態営

 アルメニア共和国は、旧ソ連邦の中で銅採掘・精錬、金属加工、機械、石油化学、軽工業などの分野で鉱工業が発達した。旧ソ連邦時代、つまり社会主義経済社会においては、企業は国営企業であった。市場は、ソ連邦全体と大きく、すべての産業分野で、製品の仕様や規格だけでなく生産計画も、モスクワの中央政府が決定し、各工場に伝達し、各工場は伝達通りに製造してきた。生産に必要な原材料も購入先が決まっており、計画に従って支給されてきた。

 計画画経済の基では、営業活動は全く不要で、どのような製品が市場で要望され、どのくらいの数量が必要かというマーケティング活動も営業活動も必要がない。経営理念も生産性も必要なく、新しい技術の導入や新製品の開発はすべてモスクワが行い、日本企業のように経営者が入ることはできなかった。

 (1)アパート建設業

 アルメニアのアパート建設の実情は、現在ロシアのウクライナ侵攻のテレビニュースで確認できる。ウクライナの各地で攻撃されて破壊されるている高層アパートがテレビ映像で放映されているが、デザイン等はアルメニアと大変似ている。アルメニアの住居用アパートもウクライナのものと画一的なデザインであることに気づかされる。この画一化の傾向は、アルメニアの他の産業でも同じであった。

 

(首都エレバン市内の高層アパート

(2)農機具製造業

 アルメニアの農機具工場の一つにトラクター製造業があった。モスクワ経由でアルメニアの工場に届いた注文は、そのほとんどがウクライナで使用する大型トラクターであった。この大型トラクターは、大きすぎてアルメニアの農場では使用しないようなものであったが、製造する工場の生産設備は大型に適した設備であった。

(3)宿泊サービス業

アルメニアは、旧ソ連邦の人たちのリゾート地としての役割を持っていた。例えば、音楽家のための「作曲家の家」とか、文人たちのための「小説家の家」等の宿泊設備が整備され、ロシアの各地から常に一定の来客が約束されていた。

 このような状況の中で、1988年にアルメニア北部を震源とする巨大地震が襲った。この地震による死者は約2万5000人、負傷者は約1万9000人に上ったと言われている。
  震央に近い地域の高層建築物はほとんど倒壊し、40万人を超える人が家を失った。特に顕著な被害が出た北部のギュムリ市では、約1万5000人が死亡し、街は壊滅した。

 この時日本政府は、国際緊急援助隊の派遣やがれき除去のための建設機械の供与を含む緊急復興支援を行っている。


ソ連邦の崩壊で大変な苦境に

 アルメニア共和国は、銅採掘・精錬、金属加工、機械、石油化学、軽工業などの分野で鉱工業が発達してきた。しかし、191年の旧ソ連邦崩壊で急激にその機能を失い、大混乱に陥ってしまった。

(1)部品や材料の入手先も市場も失った

 まず、ソ連邦と言う大きな市場がなくなった。この市場と共に従来の部品や材料の入手先も失った。それぞれの国は独立した計画を持って、外国に発注するようになり、アルメニアも地方工場で受けてきた注文が途絶えてしまった。
 更に新しくできた国境の壁で、アルメニアは周辺諸国と自由に往来することが難しくなり、ほとんどの生産業が操業停止に追い込まれた。

(2)残ったのは古い設備と意識

  アルメニアは、全GDPのほぼ 6 割が首都のエレバンに集中し、都市部と地方部とでは地域間格差は大きかった。企業経営にあっては、すべてモスクワが計画を作成し、指示する体制であたため、経営理念も不要であり、新製品開発の発想もなく、利益を心配しなくてすんでいた。日本企業のように海外や他社との競争がなく、改善も考える必要もなかった。

このような社会主義の体制にどっぷりつかってきた企業にあって、突然自分で考えることを要求されても何から手を付けてよいか見当がつかない経営者も多かった。
 自分で問題解決をすることを学ぶ間もなく、突然体制が変わってしまったのである。必要な最新の技術情報が届かなくなり、新しい技術から取り残されても気づかず、問題が存在してもそれに気づかなくなっていた。
 旧ソ連邦時代に購入した設備も新しい設備に更新することなく放置された。モスクワを上層部とする経営者には自ら考えて計画し、実行するという習慣さえも失ってしまい、頼るという古い意識のみが残り、設備は老朽化していった。

(3)民族問題が経済復興の病根に!

 更に崩壊後にできた国境が、民族問題を引き起こすことになった。ソ連邦の下では、アルメニア人とアゼルバイジャン人(アゼル人)はそれぞれ集団として領土など問題にせず、地域をすみ分けていた。
 ところがアルメニアにもアゼルバイジャンにも国境ができてしまい、アルメニア領の中にアゼル人が住み、アゼルバイジャン領の中にアルメニア人が住み、それぞれ自主権を主張し始めたため、それぞれの国にアルメニア人とアゼル人の飛び地が発生してしまった。

アルメニアと隣国アゼルバイジャンとの関係悪化は、ソ連邦崩壊後30年を経た現在も紛争状態にある。これがアルメニアに政治的混乱を招き、大幅な財政赤字、対外債務の増加、貿易収支の大幅赤字、高失業率をもたらした。これらの諸問題は、アルメニア産業へ大きなダメージを与え、それが経済復興の病根として大きく残ったのである。


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