第1章
ジャック・ウェルチの
「6シグマ経営」との感動的な出会い

1.「6シグマ」とは?

 本書は、単刀直入に「6シグマとは何か?」から始めなければならない。20世紀後半、アメリカ企業における「経営改革」の先鞭となった「6シグマ」は、ポケベル市場に参入しようとしたアメリカの代表的な通信機器メーカーのモトローラ社が、日本の企業と比較して自社製品の不良率の高さに驚き、「これでは日本企業と競争すらできない」と危機感を抱き、取り組んだ品質改善手法が始まりであった。

 1980年代、アメリカが支配し続けてきた鉄鋼、繊維、造船、テレビ、計算機、自動車等の市場は、日本の低価格で高品質な製品を提供する企業の追い上げで暗雲が立ち込めていた。
「日本の経済力は、アメリカの安全保障にとって脅威である」という捉え方がされるようになっていた。(図解:日米GDP推移参照)
          
           日米GDP推移

 しかし、アメリカでは、日本企業の経営やQCサークル活動の研究が行われ、日本のものづくりの強さは、製造現場のブルーカラーの力にあるが、それ以外のホワイトカラーの生産性はむしろ低いという評価になった。
 そこで、ものをつくる直接的な業務に限らず、経営に関わるあらゆる業務について改善、改革を行い、製品や商品、サービスの品質安定化を図る「6シグマ」に取り組むならば、日本に勝てると考えたのである。
 
 品質管理では、製品の品質の平均値向上を図るだけでなく、バラツキを小さくすることが重要である。不良が発生すれば、無駄なコストが発生する。品質のバラツキを小さくすれば、不良発生による直接的ロス、関連工程や顧客がこうむるマイナス影響を小さくすることができる。    
 「6シグマ」は、もともと統計学の概念である標準偏差「σ(シグマ)」の6倍の範囲内に品質のバラツキを押さえるという考え方である。ものづくりで言えば、歩留まりを「6σ」、つまり、99.99966%、わかりやすく言えば、「製品100万個作った時の不良品を3~4個に押さえる」というものである。
 
 一方日本は、貿易不均衡に対する国際的な批判が高まり、国内需要の拡大、海外製品の輸入拡大、海外生産へのシフト等、輸出中心型から国際協調型への構造転換を余儀なくされていた。ベルヒュード研究会は、日本企業の国際的な競争力アップに向け、「問題解決力のあるM5型組織」をつくるというテーマのもと、「KJ法」をもとにした「M5型問題解決技法」の実践研究に取組んでいた。
 
研究会の「6シグマ」との出会いは、1999年末、まさに21世紀を迎えようしていた時であった。それは「品質立国ニッポン復活の経営手法」、「日本企業に突きつけられた挑戦課題」という、センセーショナルな副題の「6シグマ翻訳本」とともに「6シグマ」の導入に成功し、20世紀世界最高の経営者と謳われたGE社のCEO「J・ウェルチ」の経営哲学や経営実践の翻訳本との出会いであった。




6シグマ
6つの基本概念

 アメリカが日本の企業に対抗して打ち出し、日本にもセンセーショナルに紹介された「6シグマ」は、「6つの基本概念」で構成され、次のように定義できるものであった。
①「顧客満足:CS(Customer Satisfaction)」を第一とし、
②市場の「顧客の声:VOC(Voice Of Customer)」と
③経営内部の「不良要因:CTQ(Critical To Quality)」の現状
 を把握し、
④「DMAIC」(下図参照)という問題解決手法によって、
⑤「業務」を革新し、製品やサービスの高品質:GQ(Good Qual
 ity)」を実現し、
⑥「無駄なコストや機会損失:COPQ(Cost Of Poor Quality)
 」の発生を極小化し、利益を最大化する全社的な問題解決活動であ
 る。





2「21世紀」の生き残りを賭け
 世界の企業が学んだ
 J・ウェルチの「イニシアティブ・6シグマ経営」


  アメリカ企業発の「6シグマ」を受け止める上で、「二つのポイント」があった。
 
 一つは、日本企業のものづくりが世界に誇った品質管理を起源としているという点であった。1980年代、日本企業の品質管理パワーの追随を受け、追い越された欧米企業にあって、中でも米企業が復活を賭けて日本企業を分析し、辿り着いたのが「6シグマ」であった。
 
 二つは、日本企業の品質管理が製造現場の主体的なボトムアップに依存していたのに対して、「6シグマ」はトップの「イニシアティブ」で全部門上げて経営上の問題に取り組むという点であった。

 「6シグマ」は、J・ウェルチが導入を決断し、顧客や社会のニーズをもとに、製品やサービス、ビジネスモデルを変革するとともに、業務そのものや組織、プロセス、企業文化・風土を変革し、競争上の優位性を確立する「6シグマX」として、世界各国の多くの企業が学び、導入することになった。J・ウェルチは、この「6シグマX」の成功で、20世紀最高の「CEO」と賞賛されることになったのである。
 

(1)No.1,2戦略
 J・ウェルチは、「6シグマ」との出会いに先立ち、「GE社の事業の多くは、これから予想される市場の変化の早さについていけない。勝ち目のないビジネスからは撤退する」という考えのもと、事業と社員の大々的なリストラに取り組んでいた。
 GE社の経営を21世紀に向け世界トップレベルでやっていける市場、独自の技術、製品、商品を選択し、経営資源を集中するという「選択と集中」すなわち「No.1,2戦略」の経営へと舵を切っていた。
 
 
J・ウェルチは、経営トップの強いリーダーシップのもと展開する全社レベルの重点施策を「イニシアティブ:Initiat
ive」と呼んでいる。
GE社の「イニシアティブ」の最たるものが「No.1,2戦略」への「6シグマ」の導入、実践であった。
 
 最初、J・ウェルチは、「6シグマ」は集中的管理、官僚的、画一的という側面が強いとして、懐疑的であった。しかし、モトローラ社等には大分遅れてではあったが、「顧客満足」を実現し、GE社を成長させ、収益を上げ、社員の信頼度を高める経営に向け、「6シグマ」を導入する決心をしたのであった。 
 それは
、GE社が21世紀を生き抜いていくために、「選択と集中」による「No.1,2戦略」のもと、GE社で働く人間が部門や業務や職制の区別なく一体となって、仕入先や取引先とも連携し、「顧客満足」を第一として、「People Out」という「組織変革」と「Work Out」いう「業務革新」に取り組む「6シグマ経営」というべきものであった。

(2)People Out

 J・ウェルチは、経営トップの理念や価値観、方針、目標を理解し、自らの業務を変革する社員を重視し、次のように熱く語りかけた。
①自分の仕事に自覚を持って欲しい。
②仕事の指示を待っているようでは困る。
③自分で意志決定していい。
④自分たちの運命は、自分たちの手の中にあるのだ。
⑤自分たちも経営に参加しているという気持ちをもって欲しい。


 そして、こうした語りかけに対応できない社員を整理し、解雇した。すなわち、「Pepple Out」である。その数は10万人に以上にも上り、GE社は「小さい会社」のようなスリムで風通しのいい組織の会社に生まれ変わったと言われる
 しかし、「People Out」は、社員の整理・解雇だけではなかった。経営トップの理念や方針、目標を理解し、業務を革新的に改善することに挑戦する社員を重視し、活力あふれる組織をつくる施策でもあった。
これが、J・ウェルチの「6シグマ経営」の起点となった「People Out」である。


(3)Work Out
 一方、J・ウェルチの人材育成、組織変革に対して、コロンビア大学のカービー・ウオレン教授は、「ずいぶん大量の人員を整理(People Out)したね。さて、仕事の整理(Work Out)はいつになるのかね」とやや揶揄の意を込めて尋ねたというエピソードが伝えられている
 J・ウェルチは、教授の「Work Out」というアドバイスを大いに気に入り、顧客がほしい製品やサービスを開発し、約束の価格と納期通りに届けるため、日常の比較的単純な反復作業に発生するバラツキを取り除くことから、大規模で複雑なプロジェクトが最初から上手くいくようにすることまで、GE社の「Work Out」をプログラム化し、社員の教育・訓練を徹底して実施した。
 それが「課題の定義(Define)、現状の測定(Measure)と分析(Analyze)、改善(Improve)、成果の管理(Control)」という「DMAIC」であった。そして全社を挙げて、この手法を容赦なく、無限に追求していく活動を「Work Out」と呼ぶようになったのである。

 
J・ウェルチは、「GE社」への「6シグマ」の導入にあって、次のような「6シグマ経営語録」を残している。

ー 「DMAIC」による「6シグマ」は、これまでにない最大の経
 営革新の手段の一つであり、企業の競争力を高める非常にパワフ
 ルなものだ。

ー だが、決して不安や混乱を招くようなものではない。歯の根っこ
  の治療とかそんな怖いものではない。

ー 上手にやれば元気が出るし、信じられない位の見返りがある。楽
  しむことだってできるものだ。これを理解しないでいる贅沢は許
  されないし、ましてや実践しないなんてとんでもない話だ。とに   かく前に進もうではないか。

(3)IT次代の到来も見据えて
 
J・ウェルチの「6シグマ経営」は、今日の世界的なIT時代の経営を見据えたものでもあった。「顧客満足」を第一に、品質向上やコストダウンや新製品の開発に向けて、「私は、これからのIT時代に合致したビジネスの仕組みをつくる」として、「People Out」と「Work Out」の視点から、次のような「IT語録」を残している。
 
ー「IT」によって、すべての企業活動が透明化され、情報は一握
 りの幹部による独占から全社員に行き渡るようになる。顧客の受
 発注の状況や在庫量など、誰もが企業の経営情報を共有できるよ
 うになる


ー下が知らない情報を握っていることでのみ権威づけられている
 ような管理職は存在意義を失う。これからの上司は、部下のエネ
 ルギーを引き出す力を備えなければならない。

ーGEでは、幹部に若い社員をつけ「EC:eコマース」を学ばせ
 ている。私も若い女性社員について、競合相手の「ウェイブサイ
 ト」はどうなっているか、詳しく説明してもらっている。

ーインターネットの知識は、GEでもトップ層が1だとすれば、ボ
 トムは10である。

トップ層が不十分な知識しか持っていなければ、インターネット
 関連のビジネスに怖れを抱き、積極的事業展開に二の足を踏んで
 しまう。

GEのプラスチック部門では、ポリマーランド・ドット・コムと
 いうサイトを開設し、他社品も含め、あらゆる種類のプラスチッ
 クをインターネットで販売し、開設後10ヶ月で、売り上げは5
 億ドルに達した。

GE社には「デストロイ・ユアビジネス・コム」という組織があ
 る。既存事業のビジネスの仕組みを破壊し、
「IT時代に合致し
 たビジネスの仕組み」をつくるのが役割である。


 
J・ウェルチの「6シグマ経営」における「IT語録」からは、「日本の企業が業種業態、規模の大中小を問わず、社長から社員までわかりやすい日本語と今日的なデジタル情報技術の活用によって顧客や社会のニーズをもとに、製品やサービスを革新するとともに、ビジネスモデル、企業の組織風土、文化を変革する」という今日的な「DX経営課題」を読み取ることができる
 

  
  
 

ジャック・ウェルチの経歴
(日本経済新聞)

 世界中の企業が、J・ウエルチの『6シグマ』に代表される人材育成と経営管理を学んだ時期があった。彼のグローバルな影響力を考えれば、『20世紀最高』の称号は決して大げさではない。

ー 1981年から約20年にわたって、ゼネラル・エレクト
  リック社会長を務めた。「選択と集中」を掲げ、事業の多
  角化と大規模なリストラを断行。在職中にGEの株価を約
  30倍に引き上げ、世界の経営者の手本とされた。
ー 1935年に米マサチューセッツ州で生まれ、イリノイ大
  大学院で博士号を取得後、60年にGE社に入社した。8
  1年に当時最年少の45歳で会長に就任。
ー 経営学者ピーター・ドラッカー氏の「世界で1位か2位に
  なれる事業だけやりなさい」という助言を守り、リストラ
  とM&A(合併・買収)を推し進めた。
ー 工場閉鎖や大量解雇もいとわない姿勢から「ニュートロン
 (中性子爆弾)・ ジャック」の異名をとったが、「選択と
  集中」は80年代以降の企業経営のキーワードとなり、9
  9年には米フォーチュン誌で20世紀最高の経営者に選ば
  れた。

 

「6シグマ経営」は、
 松下幸之助の「社員に夢と目標を託する経営」にも通じる

 
 J・ウェルチの「6シグマ経営」は、大阪の町工場を世界のナショナルに発展させ、「経営の神様」と謳われた松下幸之助の「社員に夢と目標を託す経営」にも通じるものである。
               
 世界のナショナルは、事業部制という中小企業の集合体であると言われている。松下幸之助の経営の原点は、中小企業の社長として「社員に夢と目標を託する」というものであった。
 「社員は夢と目標が与えられれば、それぞれに創意工夫をする姿や皆で協力する姿が生まれてくる。そこから自ずと人も生かされ、成果も上がってくる。」と語っている。 
 さらに松下幸之助は、若いころ病弱だったこともあり、自ら先頭に立つというよりは、人を信頼し、思い切って仕事を任せる経営を是としてきた。
 創業当初の松下電器は無名の町工場で、有能な人材の獲得は思うにまかせなかった。そのために、松下幸之助は、社員一人ひとりが日々の仕事をする上で基本となる心構えを制定し、社員が自発的に仕事に取り組む経営に格段の力を注いだ。
 松下幸之助は、J・ウェルチとは対照的なイニシアティブスタイルであった。しかし、社員はその期待に応え、アイデアや知恵を出し、仕事を改善し、製品の品質の安定化やコストダウンに務めるボトムアップ型松下経営にふさわしい「衆智を集める経営」の伝統が生まれたのである。



松下幸之助の経歴
(東洋経済)

1894~1989 和歌山県出身

 砲弾型電池式自転車ランプを考案発売を出発点として、1934年(昭和9年)40歳で松下電器産業(株)を設立定例的に「経営方針発表会」を開催、5カ年計画を発表。提案報奨制度を導入。ナショナル店会を結成し、ナショナルショップ店制度を発足。アメリカ松下電器(株)を設立。

 1956年、66歳で 松下電器産業(株)社長を退き、会長に就任。1964年、熱海で全国販売会社・代理店社長懇談会を開催。営業本部長代行として、経営の指揮にあたる。   1965年、松下電器週休2日制を実施。1967年、「5年後には欧州を抜く賃金に」を発表。
 松下電器創業55周年、78歳で会長を退き、相談役に就任する。松下電器創業60周年、経営方針発表会で「60年後にはさらなる発展を」と呼びかける
事業部体制のもと、世界に向けて、一貫して衆知を集める経営に徹し、「経営の神様」と謳われた。
 
 松下幸之助の経営を語る言葉は、時代を超えた普遍性と説得力を持っている。しかし今日の20~40代の新世代リーダーにとって、「経営の神様」は遠い存在になっているのではないだろうか。
 松下幸之助は、「指導者、経営者にとって、必要な条件として、これだけは絶対に持っていなければならない条件をひとつだけ挙げて頂けませんでしょうか」という質問に、次のように答えている。

  
  「う~ん、そうですなあ、ひとつね、ひとつだけですな。ま、ひとつだけ指導者に必要な条件を挙げよと言われれば、それは、『自分より優れた人を使える』ということですな。そう、これだけで十分ですわ」。

  「経営者にとって大事なことは、優秀な部下を集め、あるいは育てることや。いくら優秀な人でも、人間ひとりには、限界があるわ。なんでも一番ということはない。自分より、優秀な人はいっぱいいる」。
 
 「だからな、指導者がなんでもオレがオレがと言ってもできんわけや。むしろそういう自分より優れた人を傍に集めて、その人たちを活かし使う能力というか、そういうことができるということであれば、その人は、それで十分、立派な指導者と言えるけど、得てして、指導者という人は、自分より優れた人を遠ざけるな。だから、いくら優秀でも、自分の程度にしか成功せんわけや」

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