アラブの習慣と文化

目には目を、鼻には鼻を・・・
  イスラム教に、鞭打ちの刑があることは良く知られている。「鞭打ちの刑」の情報が町に伝わると、刑場となる広場には、鞭打ちの刑を見物するためにたくさんの人が集まる。
 
 刑の執行は、すべて広場でみんなの見ている前で行われる。犯罪者に対して刑罰は当然であり、公衆の中で実施するのも当然と考えられている。犯罪を少なくする見せしめのためでもある。

 刑の執行は、事前に知らされて、見物人は広場に何時間も前から集まる。犯罪者は、罰を受けるだけでなく、公衆の面前で辱めを受ける事になる。刑を執行された後、見物人は盛大な拍手をして終了となる。
 
 罪が重いほど「鞭打ち」の回数も多い。窃盗などの刑では、窃盗の金額の大きさや悪質さで鞭打ちの回数が決定される。その同じ犯人が反省せずに窃盗を何度も繰り返すと、それ以上に盗みができないように指をきられる刑や手首を切断する刑もある。更に悪質な殺人などでは断首もあるそうだ。

コーランには、許すことの大切さも明記 

イスラム教のコーランには、「目には目、鼻には鼻、…すべての傷害に同様な報復を」と記されている。
 イスラム社会ではコーランが基本的な法律であり、現在も適用されている。刑罰は、コーランの記述に照らし合わせて決定される。これらの犯罪に対する刑の執行は、外国人犯罪者に対しても例外ではない。このような理由からか、出稼ぎ人口の多いサウジアラビアでは犯罪が非常に少ない。

 ある日、子供が交通事故に遭い、不幸にも、その子供は亡くなってしまった。親の悲しみは深く、「子供に代わって、俺がおまえを殺してやりたい」というほど加害者に対する怒りと憎しみは大きい。
 この怒りと憎しみを何とかして加害者へぶつけて報復したい。鞭打ちの刑くらいでは、この怒りと悲しみを抑えることはできない。加害者に俺と同じ悲しみと苦しみをあたえたいと、被害者の父親はどのように報復すべきか考えた。コーランも同じような報復を許している。そして、我々には想像がつかない報復方法を考えついた。

私の子供を殺した加害者が、同じ悲しみと苦しみを感ずるには、彼の子供も交通事故に遭うことだ。彼が俺の子供を殺したのだから、同じように彼の子供も彼に殺させればいい。そして、加害者に要求した。「お前の子供を自分で轢き殺せ」。まさに「目には目を、鼻には鼻を、 同じ報復を」コーランそのままの解釈であり、加害者に対する最大の報復手段である。

 このような全く関係のない子供を巻き込んだ人権を無視した報復手段は、これまで聞いたことがないし、考えられもしなかった。文化が異なるとは言え、このような解釈の仕方には大変衝撃を覚えた。しかし、幸いこの刑罰は適用されなかったという。

 コーラン6章45には、「生命には生命を、目には目、鼻には鼻、耳には耳、歯には歯、すべての傷害にも同様な報復を」とある。

 犯罪者には、それに見合った刑罰が科されて当然である。犯罪に対する刑罰を考えるとき、コーランに記された言葉は、疑う余地がないほど適切な表現である。そして、「目には、目を・…」と言う言葉だけが一人歩きし、この言葉だけが良く知られるようになった。被害者の父親は、この言葉を思いだし、報復しようと考えたに違いない。そして、最大の報復方法だと思ったにちがいない。
 
 しかし、コーランのこの章の後段には、「その報復を控えて許すならば、それは、自分の罪の償いになる。」とある。「許せば、自分の罪の償いになる」。
 控えて許す。そして、報復をやめる。許すことは、被害者にとって、報復することよりも難しく苦しいに違いない。コーランは、いろいろな犯罪に対して、相応な刑罰について述べているだけでなく、被害者に許すことの大切さも明快に記しているのである。


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