Articuracy
という概念

話して考える書いて考える

  「日本版6シグマ」における業務革新のための「戦略的6シグマ課題」にあっては、「何がどうなっている」、「何のために、何をどうする」というように、360度の視野から集めたアナログな情報について、「わかりやすく語る力」、「簡潔に書く力」が基本である。
 情報の持つ意味を突き詰め、何をどうしなければならないかを考え、本質的な「SSP」を明確に言葉で表現することができなければない。




句読点をつけて話す、書く

 先月末、関西に出張した折り、ホテルでニュースステーションを見ようとテレビのスイッチを入れると、ノーベル文学賞を受賞した大江健三郎さんが渋谷の街に出かけ、若者にインタービユーをしている場面に出会った。

 大江さんと渋谷の若者という取り合わせは、何とも奇妙な感じがしたが、「女子高校生との話で、彼女は書くこともしっかりやっていると感じた。考えることと話すことと書くこととは、トライアングルの関係にある」というような事をおっしゃっていた。

 大江さんはアメリカの友人で文学理論家「エドワード・W・サイド」についても語り、若者が「自分の考えを明瞭にはっきり表現する力」を身につけるために、「句読点をつけて話す、書く」ということを勧め、「Articuracy」という概念を紹介されていた。
 
 この時の大江さんの話をもっと詳しく確かめたいと思っていたが、すばる新年号で、大江健三郎さんの「子供らに話したことを、もう一度 エドワード・W・サイードの死の後で」という文章を発見できたので、「Articuracy」という概念について、もう少し紹介することとしたい。
 この話は、大江健三郎さんが「Late Work:後期の作品」として、子供達に向けて書いたこと、書きたいこと、話したいことについて、エドワード・W・サイードを巡って話した講演録でもある。
 冒頭で大江さんは「子供の私が、考えるというのは言葉で考えるんだということに気がついた。友達と話して上手く言えなかったこと、自分では正しいと思いながら、友人や先生に反対されて相手を説得できなかったことを、家に帰って紙に書いてみる、紙や鉛筆がないときは口の中でブツブツ文章にしてみる」ことをよくやったと言っている。
 そしてサイードのことについては、イスラエルと戦うパレスチナ人の抵抗を支持してきた彼が、この夏、白血病で亡くなった時、葬儀に参列したアメリカ人はもとより多くのアラブ人やサイード家に悼む気持ちを寄せてきた多くの人に、女優である娘さんがEメールで送った文章の一部を、自らの訳で次のように紹介している。
 
 その最後の日に、私の父はパレスチのために、また、自分が考えを明瞭にはっきり表現する力と、書いて書き続ける力を失ったことを悲しんで、人前で涙を流しました。父は私を病床で励ましました。戦いを続けるように、同僚達とのつまらない個人的なすれちがいを乗り越えて、書いたり演技したりしなさい。

 大江さんは、自分が胸を突かれるのは、明瞭にはっきり表現する力という部分であり、その訳のもとになる「Articuracy」という言葉は、サイードの文章の本質を言い表している言葉であり、こういう場合にサイードの娘さんがこの言葉を使っていることに、私は胸を突かれるのですと語っている。


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