新連載
 その40 温泉につかりながら議論はしたくないが 

                  英国人は議論好きから学ぶこと

  昨年の夏、英国人を山梨県にある温泉へ案内した。3泊4日の旅行中に三つの温泉、各々特徴のあるものであった。一つは、町営の温泉、もう一つは、民営。最後は、山の上にあって富士山が正面に見ることのできる眺望のすばらしい温泉である。町営と民営の二つの温泉は、その町に住んでいる人たちは、特別割り引き料金で入浴できるシステムになっている。地元の人たちが農作業や仕事を終え、疲れを癒すために毎日のようにやってくる。外部の人では、週末に帰郷する人や近くの民宿にきた観光客が入りにくることがある。
 富士山の眺望を売り物にする温泉は、「ほったらかしの湯」といって、温度の異なる三つの大きな湯船と洗い場があるが、屋根は一部にしかなく、晴天の日には青天井の開放的な温泉である。地元の人たちもくるが、富士山の眺望の人気で、天候の良いときには観光客が多くやってくる。私達はゆっくり温泉を楽しむために、私のペースで毎回二時間ほど、ゆっくり時間をかけて入った。彼は、日本の温泉が好きであり、その時が始めてではなかった。

 彼が、また、日本へやってきた。今回は、自宅へ案内した。彼は、コンサルタントで東南アジアの各国を多く回っている国際人である。そんな彼が、昨年の温泉のことを思い出して印象を話してくれた。温泉に入っている日本人は不思議な人種だという。三十分も四十分もの長時間、時には一時間以上も、ずっと温泉に浸かって、ほとんど何も話しもせずに黙っている。これが不思議だという。確かに、温泉に浸かって話をしているのは、地元の人たちで挨拶と一般的な世間話程度である。それも一部の人たちである。議論をすることはしない。私も、彼と温泉に浸かっている間に、温泉の種類とかサウナや岩風呂の案内をする程度であまり話しはしていない。じっと温泉の湯加減を楽しんでいることが不思議に思えたようだ。

 温泉に浸かっている間は、十分時間がある。そこが議論する場所にならないのが彼には、不思議らしい。議論する時間があるのであるから、その間に自分で思っていることを徹底的に議論をすべきだと言うのである。ぬるい温泉だから、いつまでも長時間浸かっていられるし、暖まるまで時間もかかるわけだが、このような日本人を見ると何を考えているのだろうと思うようである。こうした温泉のつかり方そのものが、日本人は何を考えているかわからないという印象を与えてしまうという。

 話は、温泉から発展した。英国人は、議論が好きである。彼らの住んでいる街の近くのパブへ出かけては話をする。ここでも議論になることが多いという。ロンドンのハイドパークには、スピーカーズコーナーというのがある。少し高くなった台があり、その上に立って話をするのである。そこでは誰でも自分の意見を自由に発表することができる。今でも、自分の意見を発表するという、昔からの伝統が受け継がれている。休日には、結構話を聞きに集まる人が多いそうである。

 英国の中学校の授業には、ディベートの時間があり、自分を主張することを学ぶという。ある考え方について、それに賛成するグループと反対のグループに分かれて議論を戦わす。単に議論するのではなく論理的に相手を説得する訓練なのである。このような授業が高校でも大学でも一つの講座として設けられている。自分の考えていることを明確に話ができないと他の人に理解してもらえない。自分の主張するところの結論が異なっても、考えが理論的でその根拠が明確であれば、そのことを通してその人を理解してくれる。意見が違うのは当然と考える。自分も主張し、相手の意見も十分聞く。このような訓練ができる土壌ができあがっている。

 更に、ディベートとは異なるが、専門課程や大学に進んだ場合、その時には専門以外のことについて学ぶ「General Subjects」の時間が設けられている。その専門以外のことについて学習する制度になっている。例えば、機械工学の専門課程に進んだとすれば、それ以外のこと、例えば、生物や化学に関することをそれほど深くはないが、広く一般常識的なことを学ぶ。日本の大学の一般教養課程と同じようなものである。日本では、教養的なことを学んだ上で専門的なことを積み上げる。英国の場合には、先に一般教養をを学ぶのではなく、専門課程を決定して、並行して自分が選んだ専門以外のことを一般教養として学んでゆく。

 日本でも、一部の私立高校では、ディベートの重要性が考えられて、授業の中に取り入れ始められている。賛成、反対いずれの立場に立つにしても、相手を説得するためには、そのテーマについて、情報を十分調査し、しっかりした根拠を学習しなければならない。ディベートについて学習することは、物事を論理的に考える習慣が養われる。このディベートの時間をもっと増やして論理的に考え方を訓練する習慣をつけることが重要と思う。

 「国際化」が叫ばれてだいぶ時間が経つが、まだまだ十分とはいえない。海外で仕事をするためには相手に理解してもらうためには論理的に説明できなければならない。自分の考えがなくて、「なんとなく、そう思う。」というのは、軽蔑される。その考え方を支持する根拠が明確でないのはおかしいのだ。日本人のもつ、曖昧さやファジーな部分も、日本では有効であるが海外で理解されるのは難しい。ゆっくりくつろぎたい温泉で、議論することはしたくはないが、英国人から指摘されて考えさせられたことである。


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