新連載
 その30     財布を狙う
     ジュネーブの二人組ジェントルマン


                 早朝の散歩道でミルクをかけられた

 
海外出張すると、訪問した町ではできるだけ朝早く起きて、散歩をすることにしている。時には、朝市が開かれていたりして、その国の町の生活を直に見ることができるよい機会になる。新鮮な果物を安く手に入れることができ、町の生活の一端を味わうこともできる。また、夜よりも朝の方が比較的、安全という先入観もある。

 国際的に有名な映像機器に関する展示会を見るため、スイスのジュネーブへ出張していたときのことである。いつものように朝早く、ジュネーブの商店街を歩き、ウインドウを覗いて歩いていた。ジュネーブは、比較的安全な町で一人、ショッピングを楽しむことには問題はない。(それまでは、そのように信じていたのであるが・・・。)涼しいというより、少し肌寒い朝であった。早かったために通りを歩いている人は数えるほどしかいない。すれ違う人もほとんどいない。まだ開店していない靴店の前で靴をながめていると、私の背後を人が通り過ぎる気配がした。その時、なにか「ブチュー」という、妙な音がしたようには思えたが気に留めなかった。

  それから幾らもしないうちにまた背後に人が来て、「背中にミルクが付いている」と注意してくれた。思わず背中に手を伸ばしてみると手の先が白く汚れている。「やられた」と思った。この手口で海外で財布を抜き取られた人が結構いることを何度か聞いていたからである。まさか自分が、このジュネーブでやられるとは思ってもみなかった。急いで数メートルほど走った。近くに人がいないことを確かめて背広の上着をぬいてみると、背中にミルクがたっぷりかけられている。先ほどの妙な音はミルクをチューブから絞る音だったのである。

  二人組にやられたらしい。最初の一人が私の後ろを通りすぎた際、ミルクを掛けてなにげなく通り過ぎる。そのあとで、全く別の人が思いがけなく発見したかのように私に親切に教えてくれる。親切に教えてくれた彼は、きっちりした身なりのジェントルマンであったように思う。
 もし、その時私がすぐに注意されたところであわてて上着を脱いでいれば、彼等の思うつぼだったろう。親切にハンカチーフなどで汚れを拭き取るようなふりをしながら、私のスーツの内ポケットの財布を抜き取る段取りであったに違いない。
 幸いにも、私はこのような手口をどこかで聞いたことがあった。こんな時は、人込みからすぐに離れることだと教えられていた。これをとっさに思い出して、さっと飛びのいて離れたために、彼は私のスーツに触れることができず、財布を抜き取れなかったのである。彼はそれ以上何もすることなく、さりげなく離れていった。この種のトラブルは、ごみごみした雑踏の中で行われると思っていたがとんでもない。朝早く、人の少ないところでもやられるのである。全く油断もすきもあったものではない。
  たまたま、その通りの反対側を、そこに住んでいるらしい日本人の女性が歩いてきた。私の様子を見ていたのか、察してか、「注意して、その人は泥棒よ!」と声をかけてくれた。どうも多くの日本人がこの手で財布をやられているらしい。
 
 海外で色々なトラブルに会った人はたくさんいる。しかし、失敗を言うのは恥ずかしいせいもあって、そんな話はなかなか公開したがらないものである。日本人はまた、トラブルに会った時大きい声を出すことは少ないと言われる。そのために、彼等犯罪を犯す者にとって、日本人は良い「カモ」になっているのである。旅行会社も、海外への旅行者が減ることを恐れて、危険なことを具体的には教えてはくれない。日本でも、最近色々な犯罪が起こっているが、その比率は低い。海外では、身の回りには危険がいっぱいである。危険の中で旅行していると思ってよい。特に、日本人が狙われていると言っても言い過ぎではない。できるだけ自分でこの種の犯罪の手口を聞いておいて、身を守るしかない。

  私は、急いでホテルへ戻ってスーツをクリーニングに出したことは言うまでもない。海外出張の際は、タクシーなども、日本と比べて相当汚いことが多いのでスーツは、二着以上持って行くことにしている。注意しても、乗り降りのときに汚れることもある。思わぬところで汚れてしまって、訪問先に迷惑を掛けたり、失礼にならないようにするための予備だが、こんなことで役に立つとは思っていなかった。
 


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