新連載  
   その11
 物乞いと花売り 3 


エジプト

エジプトのカイロの繁華街は、車の混雑がはげしい。繁華街の事務所を訪問した際は、時間にもよるが、駐車場を探すのが難しい。メインストリートから路地に入り、路上駐車することになる。しかし、よくしたもので路地には、子供たちや青年が歩道上に座り込んでこのような車を待っている。スペースを見つけて、駐車しようとすると、何人かの子供たちが近づいて寄ってくる。そして、手招きで誘導し、エンジンキーを抜くまで親切に案内してくれる。当然チップを期待しての行動である。十分なスペースがあって、誘導なしに駐車できる状態でも、そうでなくとも関係はない。駐車し終えると手を出し、時には堂々と声でチップを要求する。親切にしてあげたのだから当然と言うことであろう。

また、打ち合わせを終えて車に戻ろうと出口に近づくと、目ざとくわれわれを見つけて、駐車しているところまで案内してくれる。どこへ駐車したかなどと忘れても心配は要らない。彼らのほうがこちらの車の駐車場所を知っていて、先にたって歩いてゆく。そして、汚い布でフロントグラスや窓のガラスを拭き始める。窓ガラスを拭いてくれるのも、当方の車が、きれいに磨いてあろうと汚かろうとあまり関係がない。彼らの生活がかかっているのである。とにかく窓ガラスを拭いてチップを稼がなければならない。時には、ぬぐう布のほうがあまりにも汚くて、拭かれるとかえって汚れることが心配になるくらいである。

  カイロは、ほこりが多い。特に、砂嵐の季節には、少しの間駐車していてもほこりで相当汚れる。そのため手入れをしてもすぐに汚れるのであまり手入れの良い車は少ない。手入れの怠っている時には汚い布でも拭いてもらえば良くなるので確かに助かる。

  車の誘導も、空いているスペースがない時には、便利である。こちらが、駐車スペースに困っていると、彼らは手ごろな少し離れたところに駐車できるスペースを知っていて、案内してくれる。地理に不案内で困っている場合や駐車場所がない場合には、実に助かる。こんな時には、少しチップをはずむことになる。どこにでも需要と供給の関係は成り立ちうまく機能するものである。

ここでは、物乞いとは異なる。少しでも役に立ってお金をもらおうとするのだから、救われる。本当に役に立ったときには、チップをはずみ、自分で駐車できたときには少な目のチップとなる。お互いに納得できるところになる。エジプトは、生活レベルは、高いとはいえない。繁華街には、物乞いが多く目立つものであるが印象に残っていない。

イスラム教の世界では、裕福なものは貧しいもの与えるのは当然と考えられている。物乞いも、実にどうどうとしている。特に、ラマダンの時期には、貧しい人は、会社や商店を一軒づつ回って、いくらかのお金をもらう習慣になっている。入り口にガードマンのいる事務所はともかくとして、雑居ビルのような事務所ビルでは、3階、4階の上まで上がってきて施しを求める。このような宗教的背景が原因と思われるが、じめじめしたところがない。このように思うのは私だけだろうか。

  エジプトには、イスラム教徒だけでなく、キリスト教徒もおり、両方の文化の接点にあるようだ。官公庁は、金曜日が休日であるが、カイロにある民間の企業では、金曜日に休日の会社と日曜日に休日とする会社が共存する。イスラム教では禁止されているお酒類もエジプトでは自由に飲めるのも少し救いがある。大きいホテルには、ブラックジャックやルーレットもできるギャンブル場もあるのには驚かされる。

  地方都市では、イスラム教徒の過激派が観光客を襲撃して問題になったが、ピラミッドを主とする観光都市カイロは、イスラム教徒にとっても、ナイル河に沿って農村地帯が広がり緑が多く、果物もおいしく、精神的にもほっとできるリゾートのようである。


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