新連載  
   その10
  物乞いと花売り 2 


                   フィリピンの物乞いと花売り

  フィリピンの物乞いは車の通りの激しい交差点近辺が多い。フィリピンのメインストリートでは、信号の変わるのが遅い。3分から5分くらいはあると思われる。それが彼らにはねらい目である。車が交差点の手前で停まるとどこからともなく、子どもが出てくる。時には、大人もいる。そして、車のウインドウガラスを通して車内の我々に向かって物乞いをする。
 乗用車は太陽の直射日光の暑さから避けるためにスモークにしてあるものが多い。ところがそのスモークで良く見えないはずのガラスごしに物乞いが寄ってくる。それも我々外国人の乗っている自動車をうまく見分けて、そこから離れない。外国人は比較的彼らに小銭を与える確率が高いのであろう。遠くからでもうまく見分けて直接やってくるように感じられる。フロントグラスはスモークにはなっていないから、視力のよい彼らにはすぐに判断が付くのかもしれない。我々も、暑いにもかかわらず、ネクタイを締めていることが多いからわかりやすいのかもしれない。近寄ってきて、ガラスを指でこつこつとたたき、金をくれというしぐさをする。フィリピン人の運転手は知らん顔である。時には相手にするなと忠告してくれる。我々はできるだけ知らん顔をするか、あっちへ行けと合図をする。相手もなかなかしつこい。しかし、信号が青になり車が動き出すと同時にさっと引き上げていく。全くそのタイミングの良さはあざやかでおそれいる。あれでどれだけの実入りがあるのだろう。

フィリッピンの物乞いは、国の母親に強制される幼い子どもの乞食より救われる思いがする。強制している者が後ろにいるのかもしれないが、少なくとも、彼らが強制されているようには見えない。
物乞いとは異なるがにぎやかな繁華街には、レストランの前に子供たちの花売りもいる。夕方、食事時にかわいらしい小学生らしき子どもが2〜3本の花を束ねて買ってくれと近寄ってくる。たいした値段ではないので買ってあげてもよいのだが、心を鬼にして無視をする。彼らのためにならないとフィリピンの友人は言う。彼らはそれで何がしかの金が一時的には入るが、それでなんとかなることを知ると働く意欲がなくなり、それなりになってしまうと言う。これはインドでも同じ忠告を聞いた。まじめに働いて収入を得ることの大切さを幼い彼らが理解し、そのための勉強して欲しいのである。

フィリピンの花売り娘は、物乞いではない。我々から見ると幼いながらも、懸命に働いているように見える。どれだけ利益になるのかわからないが、物を販売してお金を稼ごうとする意志がある。フィリピン人の友人には悪いけれど、そっと花束を買ってあげたくなる。そして、そのお金を少しでも将来に備えて、勉強もして欲しい。
 前回に続いて、子供達の厳しい現実とそこに生きている姿の一部を紹介した。最近、フィリッピンやベトナムの子供達がゴミ捨て場でお金になりそうなものを拾い集めて、少しでも生活の足しにしようとする姿のテレビ番組が放送され、ラジオ放送を耳にした。貧しい生活が子供にしわ寄せされている現実がある。日本では、ファーストフードやコンビニストアで売れ残りがまだ食べられる常態にありながら正味期限きれとして捨てられている。
インターネットで、情報は、瞬時に世界各国に送ることができるようになった。この様な食料も、瞬時にこれらの国の子供達にインターネットで送ることができれば救われるのだが…。


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