読書日記
国家の罠
国策捜査の本質について

新潮社
佐藤 優著

たまたま、一週間の上海出張の折、成田の空港書店で手に取った本が「国家の罠」である。
読後のことであるが、最近、民主党幹事長小沢一郎の金と政治の問題に対する検察特捜部による起訴か不起訴かの話題がマスコミによって執拗に取り上げられている。
この話題に関連して、著者が「時代のけじめとしての国策捜査」の章で、自らの起訴にかかわった検事とのやり取りを通して、「国策捜査の本質」を明らかにしようとしていた点にもう一度興味をそそられ直した。
 
国策捜査の対象は「世論」を背に「時代のけじめ」をつけるという視点から取り上げられるという。しかし、国策捜査は冤罪はつくらない。これという「ターゲット」を見つけ出したら、徹底的に揺さぶり、逮捕や起訴のハードルをどんどん下げて、「微罪」で引っかける。一旦、国策のターゲットになり、検察にアリ地獄を掘られたら、そこに落ちたアリは助からないという。
検察はとにかく引っかけることによって、国民の拍手喝采を受けることで、「時代のけじめへ」の道筋をつけたことにするらしい。

当然、ターゲットになった側からすれば、「悪かった」というより、「運が悪かった」という気持ちであろう。それだけに検察側にも「国策捜査の犠牲になった側に対しては礼儀というものがあり、罪はできるだけ軽くするのだという。著者に語ったという検事の次の言葉が「国策捜査」のすべてを物語っているようだ。

「国策捜査は逮捕が一番大きいニュースで、判決は執行猶予で、小さい扱い。少したてば国民から忘れられてしまうのがいい国策捜査の形だ。国策捜査のターゲットになった人物は大抵たいへんな能力の持ち主で、今後も社会で生かしてもらわなければならない。うまい形で再出発できるようにするのが国策捜査の腕なんだ」。

「政治とカネ」の問題の小沢一郎に対する「国策捜査」にほとんどが符合する話のようである。


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