天明大飢饉の50年後、再び天保大飢饉があり、相馬藩は農村が疲へいし、存続自体が危うくなるほどの壊滅的なダメージを受けました。
1845年、相馬藩は富田高慶(後に家老、二宮尊徳の娘婿)の指導のもと、尊徳(写真:小田原市に立つ銅像)の至誠・勤労・分度・推譲を思想的な軸とする「御仕法」による農村改革を本格的に導入しました。
「分度」とは、各自にふさわしい支出の限度を定めること。「推譲」とは、将来にそなえること、また他人のために収入の一部を譲ることをいいます。
「御仕法」では、富田高慶が領内各村を巡回し、村民による投票で村内の働き者を表彰し、お金や鎌・鍬などの農具を与え、農業への意欲を高めました。困窮者の救済、家の修理、新築にも助成をしました。
さらに、和の精神を尊重し、連帯感を高め、堤・用水路の普請・
修理等の事業も行い、早い村では数年で改革の目標を達成しました。目標が達成できた村を「仕上げ村」といい、農民の借金を返させ、日課とした縄ないの積立金を倍額にして返し、新たに凶作時の備えをさせました。
こうして「御仕法」は、明治4年(1871年)の廃止までの27年間、藩領内226か村のうち101か村で施行しました。私たちの祖先である真宗門徒移民は、この双相の地でなりふりかまわず働くことで田地田畑を拡大し、土蔵をいくつも建てる等成功を収めました。そして、二宮尊徳の「御仕法」に精励し、今日の豊かな故郷の土台を築くことに貢献しました。福島県双相地区が裕福な地になり、私どもの現在があるのは、こうした先祖のおかげです。
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